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江戸文化の黄金時代
田沼意次の
もう一つの顔
2025年の大河ドラマ(NHK)の主人公として話題の江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、1750~1797年)。重三郎が活躍したのは、老中・田沼意次(たぬま おきつぐ、1719~1788年)が権勢をふるった「田沼時代」と呼ばれる時代でした。時代劇などでは「わいろ政治」を推し進めた悪役として描かれることの多い意次ですが、実は進取の精神に富み、斬新な経済政策で幕府の財政危機を立て直した功労者。意次の活躍なくして、浮世絵や歌舞伎といった江戸文化の発展はなかったとも言われています。今回は「経済政策」をキーワードに意次の功績を振り返ってみましょう。
意次は「わいろ政治家」
ではなかった!?
田沼意次は1719年に紀州藩の身分の低い武士の子として、江戸に生まれました。16歳で後の9代将軍・徳川家重の小姓(身の回りの世話役)に抜擢されたのを皮切りに頭角を現し、40歳のときには1万石の大名に取り立てられました。家重の子・家治が10代将軍になると側用人(将軍の側近)に取り立てられ、54歳でついに幕府の最高職である老中となり、名実ともに政治の実権を握るようになりました。意次が破格の立身出世を遂げることができたのは、役人として優秀だっただけでなく、人間関係を大切にして細やかな心遣いができる人物であったこと、そして身分にかかわらず優秀な人材を取り立てて幕府内に味方を増やしたからだと言われています。また、意次は民間人の声にも積極的に耳を傾け、優れたアイデアは政策として取り上げることも珍しくありませんでした。そのため、意次の屋敷には自分の身内を取り立ててもらおうとする者や自分のアイデアを取り上げてもらおうとする者が捧げ物を持って列をなしたと伝えられ、これが後に時代劇などで意次が「わいろに目がくらんだ悪徳政治家」というイメージで描かれる一因となりました。しかし、最近では研究が進み、意次は思い切った経済政策で幕府の財政危機を救い、江戸文化発展の土壌を作った功労者として再評価されるようになっています。
商業を重視した財政構造を目指す
老中として政治のトップに立った意次にとって最大の課題は、幕府の財政難を克服することでした。年貢米に依存する財政構造の限界を悟った意次は、商業経済を発展させて幕府の財政を安定させようと考え、主に次のような経済政策を実行しました。
1.新しい貨幣を発行し、経済を活性化
江戸時代には、金貨、銀貨、銭貨(銅貨)の3種類の貨幣が使われていました(三貨制度)。これらの貨幣は呼び名も単位もバラバラで、金貨と銭貨は私たちが今使っている貨幣と同じ、数で価値が決まる計数貨幣でしたが、銀は重さで価値が決まる秤量(しょうりょう)貨幣でした。加えて、高価な物を買う場合は、「東の金遣い、西の銀遣い」と言って、東日本では金貨を、西日本では銀貨を使う独特の風習がありました。
金貨・銀貨・銭貨の公定相場(1700年)
出典:日本銀行金融研究所 貨幣博物館
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/
三貨間の両替は幕府による公定相場(1700年当時の公定相場:金貨1両=銀貨60匁=銭貨4,000文)がありましたが、 実際には日々変動する時価相場が使われていました。さらに、両替の度に両替商に手数料を支払わねばならないなど、三貨制度は何かと不便な制度だったのです。これが経済の発展を妨げていると考えた意次は、貨幣を統一すべく、1772年に「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」という新たな貨幣を発行しました。南鐐二朱銀は素材が銀でありながら、2朱の金貨と同じ価値があるとされた「名目貨幣」で、銀の重さや相場に関係なく、常に8枚で1両小判と交換することができました。銀⇔金の交換の度に重さを量ったり、時価相場から交換レートを決めたりする必要がなくなったため、南鐐二朱銀は便利な貨幣として重宝され、全国で広く使われるようになりました。意次の狙い通り、両替がスムーズにできるようになることで、経済活動が活性化していったのです。
南鐐二朱銀
出典:日本銀行金融研究所 貨幣博物館
https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/nihonkahei_3/001001/002/676_190/html/
2.株仲間を公認し、営業税を課す
意次は商工業者からの申請を受けて、「株仲間」という同業者組合を作ることを公認しました。株仲間に入らない者はその業種の仕事ができないようにして、株仲間に販売や仕入れの独占権を与える代わりに、「運上・冥加金(うんじょう・みょうがきん)」という営業税を課し、これを幕府の歳入にすることで年貢以外の財源を確保、年貢米だけに依存しない財政基盤を作り上げようとしました。
3.金銀の海外流出を抑える
意次は輸入に依存していた農産物(朝鮮人参や砂糖の原料・甘蔗)の国産化を進め、輸入品の購入に充てられていた金や銀の海外流出の抑制に努めました。さらに全国の銅山の開発に力を入れ、フカヒレや干しアワビ、干しナマコといった海産物の増産を奨励、銅や海産物を輸出して海外から金や銀を輸入しました。同時に、国内産の金銀を増やすための鉱山開発にも取り組み、安定して貨幣が鋳造できる体制を整えました。
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
このように従来の常識や原則にとらわれない、意次の斬新な経済政策が功を奏し、江戸の経済は著しく発展しました。そして自由で活気に満ちた江戸の町からは、歌舞伎や浮世絵など江戸時代を代表する文化が次々に生まれ、発展していったのです。2025年の大河ドラマ(NHK)の主人公・蔦屋重三郎も、この時代の波に乗って江戸の出版文化をリードした実業家の一人。重三郎は江戸の名所ガイドブックや黄表紙(大人向けの絵物語)、浮世絵など実にバラエティに富んだジャンルの書籍を次々に出版してヒットを連発し、「江戸のメディア王」として活躍しました。
しかし、意次が権勢をふるった田沼時代は約20年で終止符を打ちます。相次ぐ天災によって一揆や打ちこわしが増えて社会不安が大きくなり、政治に対する不満が幕府の中枢にいる意次に集中したこと、また意次の後ろ盾だった将軍・家治が亡くなったことなどから、1786年に意次は失脚。領地や屋敷を没収され、1788年、失意のうちに世を去りました。
意次の後に老中になった白河藩主・松平定信は寛政の改革に着手、株仲間を解散させるなど意次の政策をことごとく否定し、庶民の風俗や文化も厳しく取り締まりました。出版物の内容についても目を光らせ、幕府を批判する読み物や風紀を乱す本の出版を禁止したため、重三郎の出版事業も一時停滞を余儀なくされました。しかし、厳しすぎた寛政の改革は経済の停滞や文化の衰退を招いたことから人々の反感を買い、わずか6年で幕を閉じました。「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」、つまり、「松平政治はクリーンすぎて生きづらい。例えわいろ政治だったとしても、生活も豊かで文化も花開いた田沼時代が恋しい」という意味の狂歌が流行したことからも、人々が意次の実績を認め、その時代を懐かしんでいたことがわかります。実際、田沼時代に花開いた文化の多くは松平時代の厳しい取り締まりを受けても完全に廃れることはありませんでした。寛政の改革の後に再び息を吹き返し、1800年代に華やかな江戸の町人文化「化政文化」として大きく開花していったのです。
参考文献:
蔦屋重三郎と田沼時代の謎/安藤優一郎 著(PHP新書)
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85740-4
歴史なるほど新聞7江戸時代後期/千葉 昇 監修・指導(ポプラ社)
https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/7134007.html